本研究は、古琉球社会が薩摩藩の影響を強く受けながら近世琉球に変容することを、比較史的方法を用いて明らかにすることを目的としている。当初、研究の進め方として、王府機構の中枢である評定所機構と、身分編成の問題を直接的にとりあげるつもりであったが、結果的にはこの問題の解明の基礎になる薩摩・琉球の地頭制の比較と、琉球の家譜の成立についての問題の研究を主に行なうことになった。 地頭制の問題では都城島津家文書と東大島津家文書の調査によって、先ず薩摩藩における地頭制の成立の問題性がつかめて来たことが重要である。地頭の問題は外城制(郷)や城下士の成立の問題と関連していて、薩摩藩の近世的地方行政機構の問題と見ることが出来る。これに対して琉球の地頭制は、薩摩藩の制度を導入したものであるが、内容的には独自なもので、上層士族層の王府内での家格の形成の面で重要な意味を持っていることが分ってきた。家格の問題は琉球王府が当時の日本のどの藩とも異なる独特な権力構造を有していたことを証明する端緒にもなると考えている。 琉球の家譜の問題は、近世初頭の幕府の「寛永諸家系図伝」の編纂の影響を受けた薩摩藩の系図編纂の動向に連なるものであることが分ってきた。薩摩藩の動きについての影響を受けたのが羽地朝秀であり、彼の意向が琉球の家譜作成の出発点となっているのである。羽地と新納久了の関係がもっと解明されなければならないが、家譜の作成が琉球では幕藩制的身分制の貫徹として結果するのである。しかし家譜の記載形式は全く独特で、中国の族譜の影響を強く受けているのであり、幕藩制の一方的影響ということだけでは解決出来ない問題も含んでいる。
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