1920年代における日本紡績資本の対中国資本進出は、中国の棉花、綿糸市場にいかなる影響を及ぼしたのかという問題をめぐって、本年度は愛知大学所蔵の『東亜同文書院報告』を中心に、基礎的なデ-タを収集し、それらをパソコンに入力して解析することに努めた。その結果、以下のような初歩的知見が得られた。 1920年代初期に、本格的に中国への進出を開始した日本資本の紡績工場(在華紡)は、折からおこった「1923年恐慌」と称される紡績不況への対策として、従来の主力製品であった太糸(20番手以下、とくに16番手)から、細糸(高番手綿糸)への生産シフトをおこなった。当時、中国で生産されていた在来種棉花は、繊維が太く短いため、20番手以下の紡出には適していたが、高番手綿糸は紡出できなかった。このため、日本紡績資本は、棉花商社との連携でアメリカ棉花の輸入体制を整えるとともに、中国国内でも良質棉花を求めて、従来の三大市場(上海、天津、漢口)とは別に、鄭州、済南、沙市などの新しい棉花市場を開拓した。これらの後背地では、もっとも有名な霊宝棉をはじめとして、アメリカ種棉花の栽培が、在華紡進出の後さかんになった。 太糸がおもに農村副業の在来織布業に供給されていたのに対し、細糸は高陽、維県などの専業化した改良土布の生産地、都市のマニュファクチュア工場に供給された。このように在華紡は細糸への生産シフトにともなって、原料、製品いずれの面でも新しい市場関係を作り出していったのである。
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