研究課題/領域番号 |
02610167
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研究機関 | 京都大学 |
研究代表者 |
森 時彦 京都大学, 人文科学研究所, 助教授 (70027564)
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研究分担者 |
石川 禎浩 京都大学, 人文科学研究所, 助手 (10222978)
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キーワード | 日本紡績資本 / 農村在来織布業 / 「黄金時期」 / 民族紡 / 「在華紡」 / 太糸・細糸 / 「1923年恐慌」 / 沿海型・内陸型 |
研究概要 |
『東亜同文書院調査報告書』をはじめとして、『紡織時報』『華商紗廠連合会季刊』等を渉猟して日本紡績資本の本格的な工場進出以降の中国綿花、綿糸市場の基礎的な統計資料を収集し、デ-タベ-ス化をすすめた。その基礎的な成果にもとづいて、1920年代から30年代にかけての中国市場の構造的な変化に関する論文を執筆した。そこで展開した知見は、要約すると以下の通り。中国紡績業は、農村の在来織布業向けの太糸(20番手以下)生産に特化して成長し、第一次世界大戦期には「黄金時期」ともよばれる空前の好況を謳歌し、生産力は10年足らずの短期間に4倍に急増した。19世紀末以来、中国をおもな輸出先として発展してきた日本紡績業は、中国紡績業の急成長によって太糸の分野では輸出競争力を失い、対中国戦略を商品輸出から資本輸出に転換せざるをえなくなった。その結果、1920年代に日本紡績業は雪崩をうって対中国工場進出をすすめた。しかし、民族資本の紡績工場(民族紡)と日本資本の紡績工場(「在華紡」)の乱立は、原料綿花、製品綿糸の両面で中国市場の構造的な変化をもたらすことになった。中国農村の在来織布業における太糸の需要量は、平年で400万担前後だったと推計されるが、民族紡と「在華紡」の太糸生産力は、1921ー22年ころにこの需要量をはるかに超えてしまったと見込まれる。しかも、もともと紡績用良質綿花の絶対量がさほど多くない中国綿花は、需給の逼迫で高騰した。いわゆる「花貴紗賎」(綿花高の綿糸安)が顕著となり、中国紡績業は「1923年恐慌」とよばれる深刻な不況をむかえた。この太糸をめぐる「花貴紗賎」の市場環境を克服する戦略として、「在華紡」の多くは太糸から20番手超過の中細糸への生産シフトを開始し、民族紡はそれまでの沿海型から原料立地、販売立地の内陸型に転換して、太糸生産を継続するものが増えてきた。これに対応して、綿花市場も従来の三大市場(上海、漢口、天津)とは別に、良質の細糸用綿花を供給する新しい三大市場(鄭州、済南、沙市)が形成された。かくして、「在華紡」進出以降の中国市場は、原料、製品両面で重層化が進行したのである。
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