従来、北宋の御史・諫官の制度は、真宗の天禧元年(1017)の詔によって確立し、北宋政治史を特徴づける彼ら台諫の言論活動(言事)も、この詔があって始めて公的に保証されたかの如くに説明されてきた。しかし天禧以前の前史や天禧以後のこの詔の実施状況を検証した結果、叙上の定説には疑うべき余地が生じた。すなわちまず第一に天禧の詔はいわれるように御史全体に関わるものではなく、彼らのなかの特殊な一部のあるべき姿を規定したものにすぎず、第二に特に仁宗の慶暦以後言事御史とよばれることになったその特殊な一部は、ついに詔の所定の定員をみたすことがなく、きわめて少数の具体例しか存在しなかったことを実証しえた。にもかかわらず仁宗朝の御史の全員が言事官とみなされていたことに象徴されるように、彼らは実質的に言事権を獲得しこれを積極的に行使したのであり、この点旧稿で検討した神宗朝の六察の制の下の御史のありようとは、鮮明な対比をなすことも明らかにした。以上を通じて新法党政治の特異性の一端を解明する手懸りを得た。一方専任の御史を確保しようとする天禧の詔があるにもかかわらず、他職ーとりわけ三司判官・開封府推判官一を兼任する御史が仁宗朝後半期まで存在した事実も見出した。つまり新法以前の北宋の財政等実務の一定部分は、ほかならぬ御史によって運営されたのであるが、その仁宗朝最末期には、存来の三司官僚等による財政運営が行詰ったとの推摘が、同時代人によってなされている。この点に中書検正官という全く新たな実務官僚が創設されこれを中心に王安石の新法が展開されねばならない。必然性が存したと想定できる。新法以前の御史兼職の実態を更に究明しつつ、三司官僚主体の財政運営崩壊の過程を追跡し、あわせて王安石政権下における台諫の実態を、教育・思想機関である太学なども視野におきながら、検討したい。
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