これまでの、国衙・郡衙関係遺跡の発掘調査デ-タの収集整理の結果、次のような点が新たに判明した。 1.「曹司」の語については、これまで宮城の官衙にのみ用いられてきたが、平塚市相模国府推定地等出土の墨書土器により、国府段階でも狭義の官衙を曹司と呼称することがあった。 2.文献史学の研究では、「所」の成立が9世紀以降とする見解が一般的であったが、8世紀段階から、国衙では「藤所」、郡衙では「郡雑器所」「水院」など「所」の存在が認められ、曹司の役割分担が分化していた。 3.国衙・郡衙の曹司には、(1)工房関係、(2)物資調達・収蔵に関わるもの、(3)食料供給・宿泊に関わる施設の存在があきらかとなったが、文書処理などの実務機関が曹司を形成していたかはまだ判然としない。 4.宮城の曹司は、一般的に正庁・副屋・雑舎・井戸等が明確に区画された一郭を形成し、朝堂院などの中枢施設の周りに長期にわたる官衙地区を構成している。それに比較して、国・郡衙の曹司は、数棟で構成されるが、明確な区画施設がなく構造も変化する例が多い。また、政庁の周囲に整然と配置されている例も少ない。このことは、地方官衙の曹司が、相対的に独立性が弱く、制度的に体系化されていないことを示している。 5.国衙の曹司は、8世紀中ごろ以降に顕著にみられるようになり、国衙行政の充実した時期を示唆している。 6.国衙・郡衙の曹司には、政庁から数キロメ-トル以上も離れて設置された例が存在する。それは、一つには、(1)のように、製鉄工房のような原材料産地との関わりという地形的な製約による場合がある。しかし、(3)に関わる出先機関と推定しうる遺跡例も判明しつつあり、国内あるいは郡内の数か所に「御厨」的な官衙を配置し食料物資などの調達を図るといった国衙・郡衙の日常的な運営方式の実態が浮かび上がってきた。
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