1.考古資料で確認できる国衙・郡衙の曹司には、(1)工房関係、(2)物資の調達・収蔵に関わるもの、(3)食料供給・宿泊に関わる施設があり、文献史料によると、文書処理実務などを担当する曹司も存在した可能性が高い。 2.各曹司ごとには、建物配置に計画性がみられ、溝や塀で敷地を区画している事例が多い。 3.しかし、国衙の曹司の占地形態には、政庁の周囲に整然と配置され宮城と類似した一郭を構成している場合と、政庁周辺地区に独立分散的に設けられている場合とがある。後者の事例は、地方官衙の曹司が、宮城内の中央官衙曹司に比べると、制度的に体系化されていなかったことを示している。 4.国衙・郡衙の曹司には、政庁から数キロメ-トル以上も離れて設置された例も存在する。それは、一つには、(1)のように、製鉄工房のような原材料産地との関わりという地形的な制約による場合がある。しかし、(3)に関わる出先機関と推定しうる遺跡例も判明しつつあり、国内あるいは郡内の数か所に「御厨」的な官衙を配置し食料物資などの調達を図るといった国衙・郡衙の日常的な運営方式の実態をとらえることができる。 5.国衙の曹司は、8世紀中ごろ以降に顕著にみられ、8世紀後半以降に整備される傾向にある。これは、国衙機構が分化独立したことにともなうものであり、国衙行政の充実した時期を示すものと考える。 6.国衙・郡衙の厨家には、下部組織や別置された出先機関などの下部機構を備えた機能分化も推定できる。 7.郡衙の厨家は、郡衙のみならず、隣郡の郡衙や国衙などに動員されることもあり、伝使に対する供給のみならず、部内巡行国司に対する供給、国衙・郡衙での各種の饗宴の食膳準備など、広範囲の給食活動を展開していた。
|