研究概要 |
九州地域の黄檗宗寺院97ケ寺における中心的堂宇の1つである本堂に関して、建物および史料について悉皆的に調査した。この調査で得た資料を分析して、九州地域の黄檗宗寺院における建築の歴史的展開を考える上で重要な次の2点を解明することができた。 まず第1点は大雄宝殿の屋根形に関することである。長崎の3つの唐寺の大雄宝殿が当初は現状のように高大な二重の入母屋造の屋根形ではなく、低い屋根をもつ大雄宝殿であったことを証拠を掲げて示した。次に,禅堂(選佛場)を独立した1つの建物でもつ各地の中枢的寺院における大雄宝殿の屋根形は、本山黄檗山萬福寺の大雄宝殿のそれと同じく二重・上層入母屋造であることを示した。さらに,その他の土間式本堂の屋根形は一重であることも指摘し得た。これら3者の屋根形による分類によって、各寺院の本堂の歴史的位置付けが可能となった。 次の第2点は本堂形式とその変遷に関することである。国内でも黄檗宗寺院のまとまりが最も良いと考えられる別峰脈下(筑後地方南部に集中している)の本堂建築について、その形式と歴史的変遷を考察した。福厳寺(柳川市奥州町所在)大雄宝殿に始まる本山萬福寺大雄宝殿に習った本格的な土間式仏殿の建築は、江戸時代も後期になると土間式ばかりでなく床を張る本堂も出現してくるようになり、さらに江戸時代も末期には住職の日常生活空間の中に本堂も取り込まれてしまうようになり、遂には“座敷本堂"と当地方で親しみをもって呼ばれている本堂形式へと変遷したことを具体的な資料に即して解明することができた。 これら2つの研究成果によって、九州地域における黄檗宗寺院の本堂建築が江戸時代前期に始まった長崎の3つの唐寺学ら寛文元年(1661)山城宇治で確立した萬福寺,さらに九州地域へと普及をうながした中枢的寺院を経て一層地方へ定着した歴史的展開が展望できたことになる。
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