九州地域の黄檗宗寺院97ヶ寺における門建築に関する建物および史料について悉皆的に調査した。この調就で得た資料を分析して、九州地域の黄檗宗寺院における建築の歴史的展開を考える上で重要な、以下の点を解明することができた。 まず、門形式について具体的に分類を試みた。長崎の3つの唐寺における表門の形式は、崇福寺では寛文13年(1673)創建の三門(山門)、文化12年(1815)再建の山門、興福寺では元禄4年(1691)上梁の再建現存山門、福済寺では万治元年(1658)建設の山門、これらは全て「八脚門、入母屋造、瓦葺」であった。故に、これら長崎・3唐寺における門形式と本山萬福寺の門形式の関連は指摘できない。聖福寺山門の「切妻造段違」の屋根形成は九州地域の江戸時代における門は当門のみであって、一般的でない。意匠の特異性が目立つ龍宮門形式の山門は、崇福寺の嘉永2年(1849)再建の三門と嘉永5年(1852)上梁の星巌寺楼門である。「対柱式の石門」は、旧肥前国地域に限って見られるところの、特異な表門の形式である。その他、独特な、孤立した門形式も存在する。 天王殿は、従来の黄檗宗寺院建築研究において、門的性格が指摘されていたので、具体的に検討できる天王殿の位置と向きに限って、考察した。崇福寺天王殿では推測しかできないが、福済寺・聖福寺・福巌寺の各天王殿を含めて、その位置と向きは共通している。すなわち、各天王殿の位置は大雄宝殿の正面に位置し、天王殿に祀られる「韋駄天」は大雄宝殿の方を向いている。そして、従来考えられているような門機能を併せもつと考えられる天王殿は、聖福寺元王殿のみである。
|