これまでの調査で収集した資料より判明した大工について考える。これまでの九州における黄檗派寺院の建築における歴史的展開過程についての研究成果より考えて、九州における黄檗派寺院を、(1)長崎の唐寺、(2)各地域の中枢的寺院、(3)より小さな地方的寺院という3つの寺院群に分類して、各寺院群における大工について順次考えて行くのが適当と思われる。 九州の黄檗派寺院の建設に携わった大工達について、史料に従って考えてみると、次のようなことが考えられる。まず、長崎の唐寺・崇福寺における大工については、初期におけることは史料が無くて分からないが、江戸時代前期から既に日本人の大工達が改築工事に手を付けていることが最近発見の史料によって判明した。江戸時代後期の同寺においては、寺抱えの棟梁職が建設にあたった。次に、各地域における中枢的寺院の内、長崎の聖福寺においては、創建期において地元長崎の大工と遠く上方の堺の大工が各建物を分担して建設している珍しい例が見られる。その中には、同寺の鐘楼が棟札に両地の大工を連名で併記しており、江戸時代における両地の建築関係技術者間の技術の交流が考えられる。藩主の菩提寺ともなった寺院では、藩お抱えの棟梁職が建設に当たることが多かったと思われるが、江戸時代の後期頃より、藩においても建設を進めることができにくくなったようで、寺独自で決めた地元の大工によって建設がなされた。さらに小さい地方的小寺院においては、近くの大工が建設に当たったのは当然であるが、伝統的造形に強く縛られることがなかったことから別の新しい建築を生み出したことも見落としてならない。
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