M・リ-トケが指摘しているように、ペスタロッチは「リ-ンハルトとゲルトル-ト」の第3部において、学校及び教師の存在意義を積極的に肯定していた。これがその後の彼の人生において、どのような変客をみせたかということが、この研究の主題であった。 彼の論文及び書簡を分析して指摘できることは、 第1に、地域社会や、そこでの産業と学校教育との関連は、まったく見失われてゆくということである。これは彼の経営した学校が外国にまで開かれた寄宿制学校で、通学生は例外的な存在であったという事情から生じたものである。 第2、彼の学校は、その評制を維持するためには、教科教育の領域で成果を挙げることが必要であり、この点、成果の測定が困難な宗教に授を担当するJ、ニ-デラ-よりx、数学担当のJ.シュミットが圧倒的に有利であった。 第3に、学校の家庭化というペスタロッチの理想は、教師集団や生徒集団の管理という面では、外面的な無法律や無秩序を生じがちであった。 しかし、これを統制しようとすると学園の自由な雰囲気を犠性にしなければならなかった。 第4に、ペスタロッチのねらいは、新しい学校型態を創造することではなく、「メト-デ」の普遍的な有効性を学校一般において立証することであった。ところが学校の家庭化という彼の理想と「メト-デ」の有効性の立証とは、どうしても矛盾を生ずる。教帰問の対立は、2の矛盾と深く関わっていたので、学校の家庭化を犧性にしない限り「メト-デ」の追究は触不可能であった。彼が「メト-デ」を選んだ以上、学園の崩壊はもはや不可避だったのである。
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