本研究は、広瀬淡窓「敬天思想」の系譜を教育思想としての面から、そして古学の荻生徂徠・淡窓の師亀井頭南冥・昭陽の影響を中心に論じたものであった。淡窓への影響は、徂徠・亀井家学による点が非常に顕著であるといえよう。しかし先行研究者は淡窓の学派について、老荘学派・折衷学派、あるいは独自の思想家とするのがこれまでの説であり、それらは時代により変化してきたとはいえ、現在では徂徠学と朱子学との折衷学派であるとするのが通説となっている。しかしながら、それらはいずれも徂徠や亀井家学といった淡窓の師の系譜につながる学説を十分に吟味しての論議であるとはいえず、したがって同様に淡窓の「独自性」を説く説も、その点を明らかにしているとは言い難い。 筆者は、淡窓の学は徂徠学と朱子学とを半々に折衷したものとはいえず、むしろ朱子学批判がその根幹であると考える。それを論証するために、まず淡窓の経書解釈の傾向を明らかにした。というのは、当時の儒者の仕事は経書解釈が主たるものであったという理由からであり、淡窓の経学を徂徠・亀井父子と比較することを通じて、その学の系譜を明らかにしようとした。そして次に、淡窓の教育思想の重要な要素である「学習論」「敬化論」「治心論」を考えていくうちにも、やはり淡窓は朱子を採り入れるということではなく、徂徠・亀井家学に拠るところが多いと思われた。また淡窓の私塾成宜園での教育実践は、自身の教育育想を基底としたものであり、多くの点で徂徠の論の具体化である点がみられる。ただ徂徠と異なる点は、淡窓が一般大衆の教育を考えていたことである。したがって、淡窓の教育は徂徠が実際には対象と考えなかった一般大衆を対象に実践したものであると考えられる。すなわち、淡窓は折衷学派ではなく、むしろ徂徠学派のうちにこそ、明確に位置づけられるべきであると考えるのである。
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