本研究は、広瀬淡窓「敬天思想」の系譜を教育思想としての面から、そして古学の荻生徂徠、淡窓の師亀井南冥・昭陽の影響を中心に論じたものであった。淡窓への影響は、徂徠・亀井家学による点が非常に顕著であるといえよう。しかし先行研究者は淡窓の学派について、老荘学派・折衷学派、あるいは独自の思想家とするのがこれまでの説であり、それらは時代により変化してきたとはいえ、現在では徂徠学と朱子学との折衷学派であるとするのが通説となっている。 私は、淡窓の学は徂徠学と朱子学とを半々に折衷したものとはいえず、したがって朱子学批判がその根幹であると考える。それを論証するために、まず淡窓の経書解釈の傾向を明らかにした。そして淡窓の教育思想の重要な要素である「学習論」「教化論」「治心論」を考えた結果、淡窓は折衷学派ではなく、むしろ徂徠学派のうちにこそ、明確に位置づけられるべきであると考えた。 すなわち、淡窓の私塾成宜園の繁栄の陰には、彼の確固たる教育思想があったのであり、その当時の時代的要請に答えたものであったからこその繁栄であると考える。ということは、これまでの淡窓研究において捉えられてきたように、淡窓の思想が道徳・倫理面にのみ特徴をもつのではなく、むしろ政治・教育といった社会的術策という面、すなわち経世論的な部分に特徴をもつものであることを敢えて明言したい。 淡窓の時代には人々に教育熱が高まったいわば教育の高揚期であった。筆者はそれを一時代の一人物の教育思想としてのみその時代に封じ込めることなく、現代にそれを生かす方途を見いだすことを今後の課題としていきたいと考える。 「教育の荒廃」が叫ばれる今日において、淡窓の教育思想が我々に何を語るのかー今後はそれを研究していきたいと思うのである。
|