昨年度に引き続き首長墓を中心とした主要古墳に関するデ-タベ-スへの入力と各古墳の位置をデジタイザ-を利用して緯度・経度を測定するプログラムを作成し、測定した。これらのデ-タベ-スをもとに九州におけるいわば古墳文化から見た地域性の特色について検討を試みた。デ-タベ-スに入力した古墳が首長墓クラス中心であったためによるバイアスの存在も懸念されるが、古墳時代の九州を(1)北部九州地域、(2)環有明海地域、(3)南九州・西九州地域に区分することが適当であると考えた。もちろん豊後のように漸多地帯も存在する。 古代に関しては、具体的な様相が発掘調査などにより明らかとなりつつある国府を中心に一部郡家も含めて古代地方行政組織の一端を担う諸施設の空間的配置についてその計画性の検討を中心に、あるいは九州内における共通の要素の有無等についての検討を若干行った。その結果、従来のような律令政府の主導による計画性の強調は妥当でないことが明らかとなった。このことは、古墳時代の地域性とも関連していると考えられる。たとえば、大宰府に隣接する肥前・筑後両国の国府についてみると、官衛建物の配置に大宰府都府楼と共通する肥前に対して、萌芽期には軍事的色彩が濃厚であったり、若干時期的な差異があるようであるが、各建物は必ずしも一定の方角をとってはいないようにみえる筑後というようにみえる筑後というように相違がみられる。この対比は、古墳時代後期に独自性を発揮した磐井の本拠地である筑後の一面を示しているとみることも可能である。また、肥後国府の場合は方2町の築地に囲まれた国庁域が考えられ、その内部に整然たる建物の配置がうかがえるが、これは筑紫君と同族関係にあったと考えられる火君が築紫君の反乱後北九州や薩摩に勢力を伸張させたこと等を勘案すると、大和王権との協調による勢力温存が功を奏し、この国庁の建物配置を「協調」の表象景観としてみることができる。
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