作成したデ-タベ-スをもとに古墳時代九州の地域性を首長墓クラスの古墳の形態・規模・立地・内部構造・内部主体・副葬品等をから畿内的色彩の濃淡を中心に検討し、九州をつぎの3大地域に区分した。(1)畿内との関係が濃厚な北部九州地域、(2)畿内との関係は当初比較的濃厚ではあるが後に独自性が強く表われる肥後・筑後南部を中心とする‘環有明海地域'、(3)伝統的な在地性の濃厚な南九州および西九州の半島・島嶼部である。また、(1)と(2)の漸移地帯として豊後、(3)と同様在地の伝統が濃厚ながらも多数の前方後円墳が出現し、重層性のみられる日向も特色ある地域といえる。 古代における律令政府による地方空間の組織化を表象する景観である国府・郡家・駅家などの位置比定や諸施設の復原は、九州においてはまだ十分ではないが、これまでに発掘調査などによりほぼ確実と見られるものについて検討を加えてみると、従来のような律令政府の主導による計画性の主導による計画性の強調は妥当でないことが明らかとなった。たとえば、国府に関しては東九州地域については不明な点が多いが、府域は存在が明確ではなく、国庁域については必ずしも一つのプランで西海道の各国庁が統一的に建設されているものでもない。また、肥後や筑後・豊前では初期国府所在地の周辺には有力な古墳の分布は希薄であり、国府が地方豪族の根拠地からは一定の空間を保とうとしたことがうかがえる。肥後の場合は、奈良時代までの古代寺院はその使用瓦の文様に郡衙の瓦のそれとの共通性がうかがえ、周辺には有力な古墳群の存在が知られているところから、在地豪族との結びつきの強さを示唆している。さらに、肥後の初期国庁の建物配置は、大和王権と火君との協調関係の表象景観とみることができる。古代九州における律令政府による空間の組織化は、在地の豪族との対立・協調のなかで実行されていった。
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