「日本人が植民地統治の影響を語るということ-台湾原住民タイヤル族をめぐる研究史の整理」では、日本植民地統治のタイヤル族への影響についての研究史を、文化を語る立場性に注目しつつ批判的に検討した。統治の影響を語るにあたり、描かれるものの主体性を考慮せざるをえず、日本人の歴史的立場性を無にしては、日本人とタイヤル族のからまりあった歴史は語りえない。「台湾高地・植民地侵略戦争をめぐる歴史の解釈-1910年のタイヤル族「ガオガン蕃討伐」は「仲良くする」(sblaq)なのか」は、タイヤルの高齢者が、日本による1910年の武力「討伐」の歴史を、日本と「仲良くする」と解釈する現状を取り上げる。Sblaq(仲良くする)という語は、日本の武力を後ろ盾にもたらされたという点でそもそも矛盾をはらむものである。現在タイヤルの人びとが日本人に対して「討伐」が「仲良くする」であったと述べるということは、sblaqの語義をめぐる緊張状態が日本によりもたらされたということが、今まさに想起されているということである。「マラホーから頭目へ-台湾タイヤル族エヘン社の日本植民地経験」は、タイヤルの一村落において、1910年代に伝統的な政治的リーダー(マラホー)が日本により再編される過程を描く。日本人がタイヤルの高齢者の「天皇は日本のマラホーである」という発言を理解しようとする際、こうした政治の再編過程が理解されなければならない。同時に、マラホーが「頭目」と同義になることにより生じた語義の抗争状態は、この表現がなされる現在の場において、活性化している。以上のように、本研究は、植民地統治の歴史をいかに語りうるかという問題から出発し、日本人とタイヤル族の現在の対面状況において生起するものは何かという切り口から、植民地統治が刻印したもの(植民地主義)を、現在の問題として記述するという方向性を打ち出しつつあるといえる。
|