本研究は主要な三つの目的を掲げて出発したが、本年度、中務は第二の目的、古代社会における民間伝承の実態とその社会的機能を明らかにすることに努め、古代ギリシアの昔話の像を描いた。昔話の呼称としては、広く「はなし」全般を指すmythos「老婆の」という限定をつけたものが用いられていたのではないかと考えられた。昔話の担い手は老婆、乳母、母親、子守等、女性が多かったことが明らかにされた。語り出しと結びの形式には現代の昔話につながるものがあった。さらに、昔話は幼児教育の手段として極めて重要な社会的役割を果たしたことが明らかにされた。 岡は本研究の第一の目的、民間伝承がどれほど文学を豊かにしたかを検証するべく、ソポクレス『オイディプス王』を民話の構造分析という新しい観点から解釈し直した。オイディプス物語の類話(父親殺しの予言、捨て子のモチーフ)は民間説話としてもオリエントからギリシアに広く流布していたが、それらには共通の構造が認められる。その構造はこの類話群の最も基本的な要素であるばかりでなく、悲劇『オイディプス王』の構成をも律している。素材としての民間説話の構造分析を踏まえて悲劇の構造を再考した結果、オイディプスは不撓不屈の真実の追究者か、真実から逃れようとする人間か、という問題に関して極めて明快な解釈が得られた。 中務は昨年度、論文「ホメロスにおけるアポストロペーについて」において、文字以前の口承詩の伝統の中に生きる詩人の技巧を考察したが、研究の第三の目的、「口承伝承と文書伝承の関係」一般にまで考察を及ぼすことはできなかったので、今後の課題としたい。
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