昭和20年代後半の合計特殊出生率(TFR)の半減(4人台から2.1人前後)は.現代日本の家族さらには社会全体にとって、大きな画期をなす出来事であった。この現象は、TFRの低下の水準ならびにその後の推移からすれば、当時主張されていた「過剰人口圧力」や「生活の貧困」一般によっては説明不可能である。他方、現在議論されている「子供の養育費上昇」や「親とくに母親の自己実現欲求」論は、当時の生活状態や生活意識からすれば、あまりにも結果解釈的にすぎる。TFRの激減は、一般的な要因に還元するのではなく、当時の国際的な動向からしても、何よりもまず日本の経験に即して分析されねばならない。 結論的に述べるなら、大正中期からの都市生活の展開によって形作られた生活枠組が、戦後の急速な生活変動(明治前期の水準への後退と戦前達成水準への復帰)に直面するとともに以降の将来見通しに際して、第3子以上を組み込むことを構造的な実担にほかならないと強く実感しはじめていた。このような生活環境と、優生保護法の実施という公的なインパクトとが相まって、わずか5年余りの間にTFRが2分の1以下に激減し、その減少部分の3分の2以上は、性急さ故に人工妊娠中絶によって行なわれたのである。この結果、日本社会の人口構成は一時的に生産年齢人口中心型(高度経済成長)となり、やがて急速な高齢社会をむかえることになる。 なお、中絶行為そのものは、公的政策の介入によってではなく、家族という私的な領域における出来事であった。積極的にいえば、日本の家族が中絶をその内部で担う事態にこそ、家族の戦後性、あるいは現代性を見出すことができる。その特質を、地域、階層、世代、意識、新生活運動等の視点から明らかにすることは、今後の課題である。
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