昨年度にひきつづき、パーソナル・コンピュータを使ったデータ・ベース作りと、現地調査に基づく戦国期の社会関係の復元作業を行った。 前者については、甲斐の戦国大名武田氏が実施した恵林寺領検地の内容を、負担責任者ごとにまとめて表を作成し、検地高、踏出高と免除高との相関関係を検討するため、回帰分析等を行った。その結果については「研究成果報告書」を参照していただきたいが、検地政策を通じた戦国大名の政治的統合のレベルが、一般農民にまで必ずしも及んでおらず、従来考えられていたように、兵農分離、村請制的体制の構築が目指されていたとはいいがたい側面が浮かび上ってきた。この点については、「中近世移行期における国家・社会と領主制」で見解を述べているので、「研究成果報告書」所収の同論文を参照されたい。 後者については、戦国大名毛利氏が防長を征服するにあたり、最も頑強な抵抗をうけた安芸佐西郡と周防玖珂郡の山里一揆、山代一揆地帯を調査した。特に、その中心の一つである玖島郷(現広島県佐伯郡佐伯町)における祭祀関係(神社と氏子との関係)を重点的に調査した。その結果も、「研究成果報告書」に載せておいたが、中世以来年貢納入やその減免要求、さらには武力闘争の単位となっていた玖島郷ではあるが、その全体をまとめる総鎮守は存在せず、人々は部落(小字)単位の神社の氏子となっている。ここから、村というものが社会経済的単位というよりは、政治的関係により編成された点を本質としていることが想定され、近世村請制村落の成立を必然の産物であるかのようにとらえる見解は、再検討を要するといえよう。これについても前記論文で見解を述べてある。 それらとは別に、戦国大名今川・北条・武田氏と国人領主葛山氏とが競合していた沼津市域を重点的に調査し、報告論文を書いた。
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