『日本書紀』および『続日本紀』に散見する南島関係記事は、(A)椎古舒明紀に見える掖玖関係、(B)天武・持続紀〜続紀の文武・慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀年間に見える覓国使関係、(C)天平勝宝および宝亀年間に見える遺唐使の南島路関係に大別されるが、当該年度ではそのうちの(B)について検討した。 (B)の史料群は、さらに天武・持続期と文武期と和銅期の覓国使派遣として分けて考察することが可能である。 まず天武・持続紀における派遣は、都合5度あったこと、またこの時期の遣使の目的は、多禰人・掖玖人・阿麻弥人を隼人同様「夷人雑類」として位置づけ朝貢を促すことにあり、特に多禰島を南島経営の拠点として重視したことなどを明らかにした。 次に文武期の覓国使派遣については、南部九州の国制施行に関わるものであるとする説を批判し、その目的はあくまで朝貢圏の拡大を図ることにあり、さらに再開遣唐使の新航路の開発も含まれていたことを説き、南部九州の国制推進のための行動は、二次的または派生的なものであったとした。 最後に和銅期の遣使については、首皇子立太子後の最初の朝賀の儀を盛大ならしめるために南島人の朝貢促進に主たる目的であったとした。また、その後の霊亀・養老・神亀の各時期の南島人の来朝は、それまでの覓国使派遣の結果によるものとは異なり、南島人の主体的な来朝であると解した。そしてその背景には、南島社会における身分階層の発生と展開があったのではないかと推察した。
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