『日本書紀』と『続日本紀』に散見される南島関係記事は大きく三つに分類される。(1)推古紀の掖玖関係記事であり、(2)覓国使に関するもの、(3)遣唐使の特に航路に関するものである。史料のまとまりの関係上、(2)(3)(1)の順序で検討していった。但し(1)については史料があまりに少なく、断片的であるため、当該期の中国史料すなわち『隋書』流求伝を中心に検討し、それとの関わりの中で、推古紀の掖玖について考察した。それぞれの検討の結果をかいつまんで述べると次の通りである。(2)は、南島へ派遣された使を天武・持統期、文武期、和銅期の覓国使として把え、派遣の目的を版図および朝貢圏の拡大を目的としたものであるとした。そのうち文武期、和銅期の覓国使の場合は、遣唐使派遣の前に派遣されていることから、南島路の確保も任務としていたことを指摘した。そして(3)では、この南島路が正式の航路として存在していたか否かという問題を議論し、南島路の存在をみとめる通説を支持した。(1)は、まず『隋書』流求伝の膨大な研究史・学説を整理する作業からはじめ、次いで『隋書』の流求を沖縄島に限定して考えるべきとの見解を主張した。 以上の文献にもとづく研究による限り、七〜八世紀の南島は、完全な階級社会とまでは言えないまでも、ある程度の身分階層が生じており、階級社会の入口にさしかかった段階にあった可能性が大である。ところが、現在の南島考古学では、狩猟漁撈といった採集経済の段階を未だ脱しきれない社会を想定しており、文献学上の見解と大きく齟齬している。この点を明確に認識するとともに、今後こうした文献と考古学の懸隔をいかに埋めていくかが課題であることを指摘した。
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