慶応3年12月9日(1868年1月3日)の「王政復古」のク-デタ-によって、天皇を中心とする新政府が樹立され、摂関、幕府などが廃止され、太政官に総裁、議定、参与の三職が新たに設けられた。 新政府は、鳥羽・伏見の戦いに勝利を得ると、慶応4(1868)年正月10日、農商布告を発し、旧幕府領を没収して新政府の直轄地とすることとし、大坂・長崎・兵庫・京都などに裁判所を置いた。 閏4月21日、政体書による新官制を施行し、行政官に輔相を置き、その下に6官を設け、議定、参与を知官事、判官事とした。地方は、府藩県の三治とし、直轄地を府県として、知府事、知県事に統治させた。翌明治2年4月、府県事務を総掌する期間として民部官を新設した。 明治2(1868)年7月8日、新しい職員令を公布し、太政官の下に6省を設置した。地方は、府藩県三治とし、版籍奉還によって領有権を接収した藩主を知事として、府県の知事とともに地方官とした。 明治4年(1871)年7月14日の廃藩置県で、全国の行政区画は府県の二治となった。10月2日の府県官制で、府県に知事・権知事を置いたが、11月27日には県治条例で、県の長官は令または権令とした。11月の府県の統廃合によって、3府302県は、3府72県となり、新政府の官僚が府知事、県令または権令として新府県に赴任した。 この明治初期の府県のうち、明治2年2月9日の行政官布告によって、武蔵国に設置された品川県は、江戸を東京と改称した新政府が武蔵知県事をおいて統治させたところである。品川県は、4年11月の統廃合で廃止され、東京府と入間県へ移管された。
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