先に提出した研究実施計画により、今年度は主に諫山菽村に関する文書の整理・分類を行った。当初はその大部分が菽村貧の書簡であると見当をつけていた。しかし保存状態のきわめて悪い文書を整理していくうち、書簡も菽村宛のみではなく、半一郎(菽村長男)に宛てたもの、菽村の医者仲間に宛てたもの、咸宜園関係者に宛てたもの、広瀬家宛のものなどが混在していることがわかった。これらの書簡類の内容を解読して差出し年を出来る限り特定し、菽村の交友関係を調査することによって、明治20年以前の日田地方の文化状況を知り、咸宜園の没落の過程を考えていきたい。 さらに菽村関係の文書の中に書簡以外の資料も多く含まれている事がわかった。そのいくつかを列挙すると次のようになる。1養育館設立に関する文書(日田地方の私生児・孤児・捨て子等に関する行政上の扱いを含む)2地方医務に関する文書(患者のリスト・処方等を含む)3医書執筆の草稿4漢詩文草稿 この中で、咸宜園塾頭の地位にあった菽村の漢詩文の草稿が思ってほど発見できなかったことは残念である。しかし養育舘に関する資料がかなりまとまってできたことは有意義である。養育舘は、明治初年日田県知事であった松方正義や菽村たちが中心となってつくった私生児等の養護施設である。この資料の中には、成立以前の日田地方の現状、成立の経緯、経営の仕方、どのような人々が携わったかなどが詳しく述られている。これらを綿密に解読することによって、明治初期の福祉事業の一端を知ることができると考える。 今年度の基礎調査に基づいて、来年度は、1咸宜園関係2養育舘関係の2点にしぼって研究を続行したいと考えている。
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