悲喜劇とは、悲劇的展開をみせながらも、結末は喜劇で終了劇をいう。理論的にいえば、これは演劇の堕落以外の何ものでもない。それがルネサンスで持て映されたについては、やはり過度を嫌い、優美さを好む時代の趨勢と少なからず関係があったかもしれない。しかも、それが悲劇と喜劇双方の良い面をすべて備え、悪い面は排除しているという言説も、その採用に向けて大いにプラスに働いたことだろう。 イタリアでガリ-ニらによって開花したこのジャンルは、しかしながら、イギリスへはなかなか伝わってこなかった。勿論、『デスモンとピティアス』のような劇は1560年代からみられたが、これは大陸の新形式の意識的模倣とはいいがたい。むしろ、道徳劇を代表とする宗教劇の基本構造をただ踏襲しただけ、といった方が正確だろう。そして、イギリス・ルネサンスはそれを啓蒙したところに開花してくるとのだったのである。 大陸の悲喜劇は16世紀末、大学才人やシェイクスピアについで、ジョンソンらの第三のグループが登場する頃から、イギリスでは本格的関心の対象となる。演劇が人間の心の秘密を一応描き尽くしたのに応じて、都会派の劇作家たちが形式の目新しさを求め始めた時、それは問題とされたのである。時代が次第に閉塞的になり、劇作家が嘲晦気味に自己主張するのにこの形式が向いていた点も、決して無視できないだろう。即ち、これは時代に最も適した形式だったのであり、最良の教育手段でもあったのである。 ボ-モント・フレッチャーで頂点に達するイギリス悲喜劇は晩年のシェイクスピアに多大な影響を与えるとともに、その後のイギリス演劇の風土を決定的に規制してゆくことともある。いわゆるウェルメイド劇というイギリス演劇の正統は、これを嚆失い涎先するからである。
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