今年度は最終年度なので、これまでの具体的・個別的な幻想小説の分析によって得られた知見を総合して、フランス文学における小説というジャンルの成立とその変容の中で幻想小説の持つ意味を考察し、以下のような結論を得た。 フランスでは、小説というジャンルは、18世紀後半の「個人」の発見にともない、個人としての真実の表明という価値を持った一人称の物語として、市民権を得るに至った。幻想のテーマは、小説というジャンルがまじめなものとして認められる以前から、いわゆる「おとぎ話」の類に特徴的なものであったが、19世紀初頭の、個人的情熱、憂鬱、苦悩などのテーマを中心に掲げた、ロマン主義の隆盛と癸を一つにして、ドイツの幻想作家ホフマンの作品が紹介されると、悪魔・魔法・幽霊・吸血鬼といった、ロマン主義的な意味で「過剰」なものをテーマとして、多くの作品が書かれた。 しかし、小説の「本当らしさ」が、個人的なものから、社会的、歴史的なものへ移るにつれ、小説は3人称で書かれるようになり、バルザック、フロベール、モーパッサンらの写実主義、自然主義的小説が本流となる。この時期にも幻想的テーマの作品は書かれるが、客観的真実を担うものとしての小説と、幻想的テーマとの相克は、次のいずれかの方法で調停される事が観察される。まず、バルザックの『あら皮』や、フロベールの『聖アントワーヌの誘惑』にみられるように、三人称による小説世界は現実性を失い、そこで語られる幻想的な事件は象徴的磁場にとらえられるようになる。もう一つの方法は、モーパッサンの幻想作品に多くみられるように、登場人物の一人が一人称で幻想的事件を語り、その真偽は聞き手の判断に任せるという形式をとり、三人称の語り手は幻想的事件の語り自体には関わらないという方法である。 以上の観察から、幻想は「私」によって体験されたものとしてしか、信憑性を持ち得ず、幻想小説が普通三人称で語られるおとぎ話と異なるのは、まさにこの語り方の違いである事が明らかになった。そして、この「個人的体験」を語る幻想小説が、次第に「私」の意識・認識への疑いを中心的テーマとするに至るにつれて、小説自体を再び一人称の「個人的真実」へと回帰させる契機となった事も後づける事ができた。
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