1.まずアラブ側(とくにPLO)の文献、イスラエル側の文献、国連の文献及び多くの既存の研究書に当たって、中東和平問題の中で西岸・ガザ地区がどのように位置付けられてきたかを明らかにするように努めた。ここで明らかになったとことは、当初イスラエルの存在そのものを認めまいとするアラブ側のイスラエルに対する「拒否主義」が大きく変ってきた半面、当初「領土と平和との交換」をめざしていたイスラエルの姿勢に変化が生じ、安全保障上の理由及びエレツ・イスラエルに対するユダヤ人の特殊の権利という宗教上の信条から、逆にパレスチナ人の民族的権利に対するイスラエルの「拒否主義」が強まってきたということである。 2.次いで西岸・ガザ地区に対するイスラエルの占領政策を、(1)労働党政権の時代、(2)リク-ド政権の時代、(3)労働党・リク-ド大連立政権の時代・(4)第2次リク-ド政権の時代、四つに区分して分析し、併世代、これらの政策によって西岸・ガサ地区がどのように変容したかを明らかにした。 3.上記の変容の中でもとりわけ顕著なのは、西岸・ガザ地区のかなりの部分がイスラエルによって接収され、そこにユダヤ人の人植地が次々と建設され、イスラエルによる事実上の併合が進められてきたということである。同時にまた、西岸・ガザ地区のパレスチナ住民は、基本的人権の多くをも浸害されてきた。 4.インティフィ-ダは、こうしたイスラエルの占領支配の永続化に対するパレスチナ住民の長年の不満が爆発して起こったものであるが、半面、そこには、(1)アラブ諸国の国先だけの支援に対する帆滅計、(2)PLO内部の権力争いに対する嫌気、といった背景があることも見景すことができない。
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