I.武家地処理:明治維新後、新政府により収用された武家地が、旧公家や大名に払い下げられ、官庁・兵営・官員住宅地などに転用された経過を分析。 東京となった旧江戸の市街が、武家地・寺社地・町人地という三元的土地支配から私有地の集合体へと変化し、そこに皇族や華族邸宅が建設されていく過程を示した。 II.明治の皇族・華族邸宅:文明開化はまず皇室によって正当化され、それに追随して皇族や華族たちに引き継がれた。皇室先導の文明開化は、住宅の西洋化についても同様に行われ、まず、皇室は明治宮殿において、外観を伝統的な和風意匠、室内に洋風意匠を加味させた独特の和洋折衷意匠で完成。近代天皇制樹立期における「伝統」認識の過渡的状況が認められた。皇族邸は明治17年の有栖川宮邸をはじめ、その後も、伏見宮邸、閑院宮邸、竹田宮邸と洋風居館の建設が続く。大半が木造の和館を併設していたが、事務棟として建てられ、生活の本拠はあくまで洋館にあった。 洋風邸宅の建設は、華族にとっても重要な課題となり、そのことが上層階級の証であり、政府の欧化政策を自ら実践することにつながるとの考えから、明治20年頃より次々と洋館建設を実現して見せた。大半がさらに広大な和館を併設しており、殆どの場合、日常の生活はその和部で営まれ、洋館は接客用とされた。皇族が自らの生活まで洋風化しようとしたのとは対照的。 III.大正・昭和初期の華族邸宅:華族の生活は戦前まで、建物の洋風化とは対照的に前近代的なものであったとされていたが、大正期以後、特に関東大震災を契機として再建された邸宅の個別の事例を見ると、生活の洋風化にともない、洋館の積極的な建設・活用の傾向が窺える。これは、留学や社交を通じて洋風の生活様式に慣れた第二世代の当主が、新邸建設に当たり洋風生活への転換を自然なものとして導入したと考えられる。 IV.本邸と別邸:明治期の有力華族には、東京に本邸を構え、京都に別邸をもち、その他にプランテーション農場とカントリー・ハウスを所有する理想形式が見られる。これは、旧幕時代からの土地持ちの豪商・武家層の邸宅所有の形式と西欧貴族の形式とを複合したスタイルと考えられる。なお、皇族については、東京を本邸に別邸は葉山・箱根など温暖な地に構えることが多く、京都には久邇宮を除いては別邸を営むことはなかった。 V.華族制度と邸宅造営:華族制度が華族の邸宅造営や土地経営に如何なる影響を及ぼしたかについて考察。旧大藩の大名華族や財閥華族などは、潤沢な資本を背景に、邸宅所有の理想を実現し、貸地・貸家の多角的な経営を展開していたが、公卿華族には殆んど見られなかった。 VI.大名屋敷跡地の市街地形成:江戸の大名屋敷は、多くの部分が維新後、大規模施設等に転用され現在に至っているが、一方では、大名家や財闘家などの大土地所有者による住宅地開発、借地・借家経営等を通じて敷地が細分化され、華族の土地経営が既成市街地の形成にも大きな比重を占めていることを示した。
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