本年度は「日書」に現れた家屋・土地を含むところの、戦国時代の家族像を復原するのが目的であったが、その基礎となる「日書」のテクストの再整理に足を取られて、本来のテーマを進める時間が足りなくなった。すなわち最も新しいテクストである『睡虎地秦墓竹簡』に誤植が多く、簡番号も違ってしまったので、最初のテクストである『雲夢睡虎地秦墓』との校合作業等に時間が取られた。そこで今後のこともあり両テクストを徹底的に洗い直した底本を作ろうと考え、実行した。それを研究成果報告書に収めることができたのは、大きな成果であった。またテクスト洗い直しの過程で、天水放馬灘秦簡「日書」や包山楚簡等と比較検討できたことも、「日書」の資料的性格を検証する上で有益であった。ともあれ、これでテクストとしての「日書」の性格はほぼ確定されたので、今後はこのテクストによって、改めて戦国時代の家族像を再検証してゆく予定である。なお、論文という形にするまでには至らなかったが、そのような戦国時代の家族像を探る一環として、「雲夢秦簡にみえる毒言(悪言)と共同体」(『東方』140)という小論を発表した。これはまだデッサンの段階であるが、毒言(悪言)癖のある里内の嫌われ者が里中の主だった者たち二十人に連行されて県廷にやってきたという爰書(調書)の分析で、雲夢秦簡「封診式」見える資料である。そこで問題となっているのは、毒言(悪言)が里内の社会秩序を脅かすものとして弾劾されていることで、この毒言(悪言)のタブーは「日書」の中にも散見する。しかしそのタブーを犯す者の処罰を何故里人が里内で処分せず、国家権力に委ねているのか、ここに戦国後期における里の共同体的社会秩序の解体過程を想定しようというのがその主旨であった。この問題の検討をさらに展開してゆけば、雲夢秦簡に見える法と習俗の問題は今後さらに深化されると考えている。
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