報告者、支書行政の面から、清朝の支配構造の解明を試みてきた。清朝における中央決議は、題本(公式文書)と臣下から直接皇帝へと提出される奏摺(私的文書)とに基づき行われていたが、清朝皇帝は、奏摺を媒介とした臣下とのコミュニケーションを政治に活用することで、政治における意志決定過程をコントロールする能力を有し、広大な領土に専制的支配を展開したのである。報告者は、康煕年間(1661-1722)において、政治上に奏摺を多用化するようになる過程を分析することは、清朝の行政構造や支配体制を考察する上で極めて重要であり、奏摺政治の展開を解明するためには、康煕帝即位から親政・体制確立までの政治状況を考察することが必要ではないかと考えた。 そこで、康煕年間の政局を分析することで、康煕帝が親政を開始した直後、皇帝と結ばれた重層的な婚姻関係を背景に、侍衛組織と内閣制度とを融合した内廷を形成したことを明らかにした。また、内廷には、内廷侍衛が入侍するようになったこと、この内廷侍衛は、満洲人・モンゴル人・朝鮮人・漢人・ウイグル人の五族からなり、清朝の多民族的性質を象徴したものとなっていたことを明らかにした。 また、康煕帝は、帝権を侵食していた所謂"満洲貴族"を排除するため、漢人の朱子学者を重く用い、(1)法治(2)皇帝を中心とした政治システムの構築(3)儒教道徳に基づく徳治(4)倹約の奨励といった政策を行うようになる。その政策に基づき、康煕帝は、新たな政治スタッフを構成するのだが、康煕24年(1685)にその政治スタッフは、地方財源の侵食の問題を隠蔽処理したことが明るみとなる。地方政治について朝廷内の中央官にも諮問できない状態にあることを察知した康煕帝は、以後、地方官と自己との間で奏摺を交わし、地方政治について直接諮問するコミュニケーションネットワークを構築することとなる。
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