1930年代後半から1940年代初頭のイタリア映画界において、大きな影響を与えたハンガリー映画について、7月に、ハンガリー、ブタペシュトにある、ハンガリー国立博物館において、フィルムの視聴調査を行った。二週間の調査において、20本のハンガリー映画を視聴した。なかでも、ヴィットリーオ・デ・シーカの初期作品2作と、そのオリジナルであるユダヤ系ハンガリー人ヴァイダ・ラースロー監督作2作を比較分析した。この調査の成果は、イタリア映画とハンガリー映画の相似と相違を明らかにした論考『小さき国民映画同士の交流-1930年代のローマ-ブダペシュト』を、雑誌『ユリイカ』10月号に発表した。 また12月は、イタリア、ローマにあるチネテカ・ナツィオナーレにおいて、1940年から1942年にヴァイダがイタリアにて監督した作品の視聴調査を行った。1938年に、ハンガリーにて反ユダヤ法案が成立したのを契機に、ヴァイダは国外に出る。そして、フランスを経て、1940年からイタリアにやってきた。デ・シーカが自身の作品を無断でリメイクしているときに、ヴァイダも同じローマで映画を監督していた。今回の調査で判明したことは、当時イタリアにおいても、亡命ユダヤ系ハンガリー人という、ヴァイダの地位は、けっして安泰ではなかったということである。彼がイタリアで置かれた状況は、『ジュリアーノ・デ・メディチ』(1942)の監督クレジット削除事件からも伺いしれる。しかしながら、イタリア時代のヴァイダの監督作品は、当時のイタリア映画とハンガリー映画の本質的な相違を示す貴重な資料といえる。イタリア映画史が完全な無視を決め込んできたヴァイダの作品のテクスト分析および、彼が経験したハンガリー映画とイタリア映画の裏面史を論じる論文を現在準備している(以上726字)
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