ドイツの戦後改革は、4大列強の直接占領のもとではじまった。ドイツ人はそこでは、当初、占領された国の国民として、占領当局の絶対命令に服することとなった。そのドイツ人は、最近の研究によれば、戦争末期に近づくにつれて、「麻痺状態(La^^′hmungslage)」に陥っていた。しかし、それでは、この麻痺状態の内的構造はどのようなものであったであろうか。それはどのようにして、いかなる諸要因のものに形成されていったであろうか。このような角度から、今年度は、まず、拙稿「ドイツにおける戦後改革-その主体的要因をてがかりに-」『土地制度史学』第135号(1992年4月)、および、社会経済史学会編『社会経済史学の課題と展望-社会経済史学会創立六〇周年記念』(有斐閣、1992年5月刊行)所収の拙稿「ヨーロッパの戦後改革-ドイツ-」でまとめた研究整理を踏まえて、ドイツ第三帝国の占領政策について、とくに1941年以降の総力戦化の過程におけるソ連・東欧占領政策について、研究した。 そこでは、これまでにわが国では分析されたことのない史料、すなわち親衛隊・秘密警察の民情報告を丹念に追跡分析する事が、第一の仕事となった。そのなかで明らかになったことは、民衆が戦争がグローバル化するなかで、戦果に喜びをしめしつつも、しだいに不安感と危惧に押しつぶされていく様子であった。民衆意識の「麻痺」の構造は、このような劣勢化・総力戦化に対応する国家指導部の強力な宣伝、あるいは被占領地の人的物的資源の活用とによって、ストレートな形ではあらわれてこない。しかし、いわば通奏低音とでもいうべきものとして、民衆の心の中に不安感・不信感・窮乏感とともに次第に沈澱し、食糧不足、空襲などの影響下で、身体の末端から民衆をしびれさせていくものであった。
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