本研究の主要目的は、古代木簡をその出土遺跡や伴出遺物、木簡の廃棄・出土状況との一体的、総合的な検討をつうじて、遺物としての木簡の資料価値を明確にすることにある。平成五年度は藤原宮、平城宮、平城京、長登銅山跡出土の木簡の資料的性格、時代的特徴などを追究した。 1、藤原宮時代は、前半の7世紀末が浄御原令時代、後半の8世紀初頭が大宝令時代に分けられるので、藤原宮跡出土の木簡には、浄御原令の規定に依拠して記載された木簡と、大宝令規定に依拠して記載された木簡がある。紀年木簡はその点時期が明確であるが、逆に年代以外の記載内容によって、上記の2時期に区分できないか。とくに二時期にわたる木簡を出土したSD105、145、170からの木簡のうち、国郡表記の倭国、三野国、備道前国、吉備中国郡表記のについては、大宝令施行に先立って郡字を使用することがあったのではないか。従来評字は浄御原令、郡字は大宝令の規定による使用とされ、いわゆる郡評論争は収束したというが、郡字大宝令始用説も、大化改新詔郡字大宝令転載説も、解決されていないと考える。 2、平城宮、平城京跡出土の周防国大島郡調塩塩荷札は、左京3条2坊8坪のSD4750から21点、第2次内裏のSK820から4点、宮張出し部西南隅のSD4951から1点を数える。里ごとにまとまった廃棄、出土状況から判断すると、国郡里単位で、分類、保管され、消費されたことを解釈できる。 3.長登銅山跡出土の木簡によって、奈良時代初期開発された官営の銅生産施設であることが立証できた。当施設への官物供給が貢進地から直接行われたこと、女子労働が銅の製錬や炭焼きの部門に投入されたこと、逃亡者が多数いたこと、木簡の投棄状況から主要建物は、標高170メートル以上の地点にあったことを解明した。
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