古代木簡をその出土遺跡や伴出遺物、木簡の廃棄・出土状況との一体的、総合的な検討をつうじて、遺物としての木簡の資料価値を明確にし、そのより広い活用を図るため、平成4年度は平城京、長岡京、長登銅山跡、平成5年度は藤原京、平城宮、平城京、長登銅山跡出土の木簡の資料的性格、時代的特徴などを追究した。 1、平城左京3条2坊の、とくにSD4750から出土した約3万5千点の厖大な木簡をめぐって、その一画に経営された邸宅が、天武天皇皇子高市親王家の、飛鳥宅にたいする平城宅であり、高市妃の御名部内親王、その子長屋王、妃吉備内親王、親族などが居住し、有力皇親家の家族制支配の拠点であることを明らかにした。 2、長岡京左京2条2坊のSD1301出土の木簡のうち、荒炭を請求する木簡が2点ある。いずれも長岡宮内にある太政官から、木簡出土地付近にあった太政官厨家にたいして、研磨用の炭を請求したもので、その具体的な用途は太政官での公印の整形工程に当てるためであったことを明らかにした。 3、藤原宮跡出土の木簡に記された地名表記の国評、国郡によって、前者が浄御原令時代、後者が大宝令時代、の記載とみられてきた。しかしSD105、145、170の木簡のなかに、浄御原令時代、郡字を用いたと推定できる余地があるものがあり、いわゆる郡評論争が大宝令郡字始用説の点でも、未解決であることを指摘した。 4、平城宮、平城京跡出土の周防国大島郡調塩荷札26点は、出土地区、状況から、国郡里単位で、分類、保管され、消費されたと解釈できる。 5、長登銅山跡出土の木簡75点によって、この一帯が奈良時代初期からの官営のの採掘、製錬遺跡であることを立証した。女子労働が投入され、逃亡者が多数いたことをあきらかにした。
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