まず羅什訳『中論』における羅什独自の実相論の特色を、第十八章だけでなく、第二十二章などをも含めて全体的に再検討した。その結果、彼の実在観がナーガールジュナの『中論頌』の思想やインド中観派の実在観とはかなり異なったものであることを具体的に解明することができた。 その他にも、実相論を中心とした検討をナーガールジュナの註釈書とされている『大智度論』に関して、特に実相に言及していると見られる若干の章について行なった。『大智度論』には羅什の漢訳と比較対照できる原典やチベット訳は現存しないが、その実相論を中心とした般若波羅蜜思想の特色は、インドのナーガールジュナの思想というよりも、寧ろ漢訳者羅什自身の実相観を色濃く反映しているものであることが認められる。しかし実際にそれらの記述がインド的な思想を伝えるものか、羅什の思想を示すかを個々について具体的に実証的に決定するには、可成り厄介な論証操作を経なければならない。現在は個々のケースの実証と共に、どこまで『大智度論』の実相論として体系化できるのかを検討中である。 これらの課題と平行して行なっているのは羅什の経典解釈の研究である。そのなかでも特に『法華経』の「方便品」の十如是を中心とする実相観はインドには見られないものであり、それが天台教学に与えた影響は計り知れない。この十如是の実相論や『中論』の空仮中の三諦偈の羅什の解釈などが、インドの『法華経』や中観思想の実相観とどれ程異なるかを明確にする一方で、『大智度論』の実相論を含めて、羅什の十如是などの実相観が、中国仏教に対してもつ源流としての意味を、天台の『法華玄義』『天台止観』『法華文句』などによって検討しているところである。
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