研究概要 |
鳩摩羅什は多くの主要な大乘仏教の経典と論書を漢訳することによって、中国の仏教受容に決定的な影響を及ぼした。ここでは彼の思想の鍵となる諸法実相をとりあげ、それをサンスクリット原典やチベット訳と比較検討することを通して、中国仏教史において彼が果した役割の重要さを明らかにすることに努めた。 『小品般若経』のばあい、羅什の漢訳は思想的には原典の忠実な翻訳といえる。そこでは諸法実相は主にdharmataの訳語として用いられ、原語と同じく、基本的には本性,本来の姿の意味で用いられている。 空の立場における諸法実相論を最も体系的に論述しているのは、『中論』第18章である。著者ナーガールジュナのこの章の実在観は般若経のそれと基本的には同じである。それに対して羅什は諸法実相が単なる本来性、客観的真理でなく、諸法実相に入ること、諸法実相が実在の主体的実現であることを強く主張している。 『維摩経』や『大智度論』の原典は実在をdharmataよりもdharmadhatuと表現し、『華厳経』のように実在を「入法界」即ち「真実の世界に入ること」であると主張していたようである。しかるに羅什はdharmadhatuを法界でなく、法性と訳していることからも窺えるように、入法界を諸法実相に入ることという彼の実在観に近づけて理解し、訳出している。 『法華経』において羅什は「方便品」の中心的箇所で諸法実相の語を使用し、更にそれを十如是とすることによって、『中論』の実相論を一歩すすめた彼独自の諸法実相論を示している。その特色は実相が単なる真実相ではなく、現実相であり、真に現実を肯定するものである点にある。これが中国天台の成立の基盤となった実相論である。
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