前年迄の研究成果として、日蓮の戒律思想には、初期の『戒体即身成仏義』における法華開会の五戒を中心とした思想と、『本門戒体鈔』における十重禁戒を中心としたものとに大別できるのであるが、前者は22才の、後者は58才の記述であり、その内容には少なからぬ差異が生じていた。この差異をどのように捉え、又他の遺文における戒律に関する断片的記述との連関をどのように理解してゆくかが本年度の課題であった。 これらの点について、差異性についての理解の結論として妥当と考えられるものは、以下の2点となる。前者の遺文は日蓮が立教開宗する以前のものであり、天台法華の開会思想が色濃くでているものと理解できる。後者の遺文では、開会思想を凌駕すべく、久遠仏思想を基軸として戒の依り処としている点が特筆されるものである。さらに後者については小・大乗における具体的な戒という概念にとらわれたものではなく、何によって戒がなければならないのかというエピステモロジーに似た証明を試みようとしている。ここでは戒の具体的な内容よりも、より本質的命題の解決が一義であると考えられる。この両点から前者と後者とに差異が生ずる事は至極妥当とみなすことができる。 遺文中において、日蓮は戒・戒体・事戒・理戒・戒法・戒壇という語句を用いる。しかし、これらの語句を字義通りに解決すべきかどうかについても疑問が残る。例えば『三大秘法稟承事』では、戒法・戒壇の両語が同義的に扱われている箇所が見られる。このような、語句定義の方法をどのように展開するか、又、この結果がどのように解釈できるかが、今後の課題とされる。
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