日本におけるキリスト教の受容の変容 日本におけるキリスト教の土着化の問題を考えるさい、カクレキリシタン信仰の現在の姿は、大きな示唆に富むものであるということができよう。宗教における土着化は、ある新たな宗教が、いかに民衆の実生活のなかにとけこみ、それらの人々の思想・行動に影響を与えたかという観点によって論じることができよう。すなわち日本人の基層信仰に対して、どれほど浸透することができたのかということである。 日本におけるキリスト教の土着化の試みは、多神教的世界観を持ち、きわめてシャマニスティックな宗教土壌に、絶対的な一神教がはたして根をおろしうるかどうかという、きわめて興味深い実験であったと見ることができる。この実験は日本のみならず、朝鮮、中国、フィリピンといったアジア諸国、あるいは中南米諸国などにおいても同様に試みられたものであった。 実験の結果は、いかなる地域においても、正統(純粋)なキリスト教の土着化は不成功におわったといえよう。日本における外来宗教の受容は神道、仏教、儒教といったものとの習合した形でしかなく、根底から基層信仰に変革をもたらすものではなかった。日本人の基層信仰とキリスト教の習合のありかたの端的な姿が、現在も長崎県において継承され続けているカクレキリシタンの信仰に示されている。しかし、長期にわたる弾圧と指導者の欠落によって、現在におけるカクレキリシタンの信仰は、キリスト教の日本における土着化の1形態というよりは、日本人の基層信仰のなかに完全に埋没したものであるといえよう。辺境の地に住む民衆によって形成されてきたカクレキリシタン信仰は、図らずも日本人の基層信仰の特色を一層明瞭に浮き彫りにしているのである。
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