今年度は、1930年12月に、なぜ文部大臣訓令「家庭教育ニ関スル件」が公布され、大日本連合婦人会が設立されたのか、そしてそれをどのように歴史的に位置づけたらよいのか、という課題に関して主に研究をすすめた。この研究の過程で、これらの動きは二つの側面からとらえられることが明らかになった。 一つは、女性運動対策、女性動員策としての視点でとらえることである。すなわち、大正デモクラシーの下で、女性運動が活発化し、多くの女性団体が組織されていったが、このような状況の中で、大正末年から昭和初期にかけては、女性運動を主として担っていた都市中産階級の女性層を組織化し、体制内に吸収していくことが、政府にとって新たな課題として浮上してくる。それは当初は、消費節約運動や国産品愛用運動への女性の動員という形をとったが、やがて家庭教育振興策への女性の運員へと変化し、その具体的現れが、「家庭教育ニ関スル件」の公布や大日本連合婦人会の結成であった。 二つには、社会教育から教化総動員へという、社会教育史の流れの中に、これらの動きを位置づけることである。昭和初期、マルクス主義思想の青年層への浸透や世界恐慌に端を発した経済不況は、「思想国難」「経済国難」ととらえられていたが、これらの危機的状況を乗り切るために、文部省によって教化総動員行政が展開された。そしてその政策の一つが、「家庭教育ニ関スル件」や大日本連合婦人会であり、低下しつつあった家庭の教育機能を母親を通して回復させ、そのことによって、思想「悪化」を防止しようとしたのである。 なお今後は、家庭教育の担い手として期待された母親たちを対象に、具体的にどのような政策が展開されていくのか、明らかにしていきたいと考える。
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