山地にはかつて多くの峠があり、山村の人びとは峠道を行き来して外社会と交流を結んできた。 本調査研究の目的は、1、峠道を越えた交流がもつ性格を明らかにするとともに、2、交通路の転換がもたらした惣川と外社会との交流の変容を跡づけるところにあり、四国山地の西部に位置する旧惣川村において、1992年から1993年にかけて現地調査を実施した。その結果は、次のとおりである。 1、惣川の交通路は、交通手段が発達するのに応じて、山道から谷底を走る幅の広い道路1本に転換した。 2、峰峠がにぎわいをみせた頃、峠にはさまざまな職業に従いながら多くの人びとが暮らしており、それゆえ峰峠は町のような様相を呈してムネントマチと呼ばれていた。 3.峠道が衰えたのは、大正末期から昭和初期(1920年代頃)のことである。 4、峠を越えて往来した時代、惣川の人びとはさまざまな方向へ交通路を開き、とくに小田、内子、五十崎、鹿野川など、惣川の北から西方面の地域と深い関係を結んできた。 5、新道が開通すると、惣川は船戸川下流域の野村方面と結びつくようになった。惣川が野村町に合併した理由の1つはここに求められると思われる。 本調査研究の結果からは、次のような結論が指摘できる。 峠道は近代的な交通体系下においては効率の悪い交通路と言えようが、反面、それは多方面との結合を促す性質を帯びており、この点は山村と外社会との今後の交流を考えるうえで再評価されるべきである。なぜなら、交通路のありようは地域形成と地域間交流にとって重要な要素に違いないからである。
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