以下4点を記す。1.戦国後期のイエズス会布教-キリシタン信仰を村落共同体の伝統的祭祀制度に化体し定着させたことが発展の契機となり、村落流通経路に沿って拡大した。長崎の様な新港湾都市では、まち共同体が同時に信仰組織の単位となり、領国主の末端組織頭人中の自治機能と教会の教区的共同体の二重性格を持った。2.戦国期の貿易-戦国大名は外交権と貿易権を把握して、港湾建設を行い、碇泊税と関税を収益とした。長崎の場合イエズス会は碇泊税と地子を知行として得た。他方ポルトガル側は、ゴアを基点とした国王授権によるカピタン・モール制を整備して、マカオ・日本間の同制度を確立、マカオに政府以下の自治的都市制度を完成させた。カピタン・モール制は限時的に船舶の就航と貿易品の積載、国王への利益拠出を義務付けた交易利益権の供与である。日本イエズス会は、プロクラドールに来航船の取引管理をさせ、同時に長崎・マカオのプロクラドールの貿易勘定により利益を教会維持費に充当した。3.豊臣秀吉のキリシタン禁令の影響-天正15年禁令(1581)により長崎収公のほか日本イエズス会は最大の後見者である高山右近の追放を受け、仏教勢力に対する決定的な敗北となる。その後ローマ教皇の各会派への日本布教の容認と秀吉のフィリピン貿易の交渉過程で、フランシスコ会、ドミニコ会等の托鉢修道会宣教師が来日し、ミゼリコルジアの組織から発展したコンフラリア等の信仰組織の信者の争奪によって、キリシタン布教は二重の対立関係が生じ不幸な展開となった。4.豊臣政権の貿易政策-秀吉は長崎においてポルトガル貿易品の先取特権を行使したが、このためプロクラドールが秀吉政権に関与する契機を得た。他方朝鮮派兵の直前にフィリピンとの国交を要求したが、総督側は、マニラでのノエバ・エスパニアの産銀と中国船による生糸・絹織物の仲介貿易が日本貿易船の介入により競合関係を惹起するための慎重であった。
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