本年度は秦帝国の形成と東アジアの問題を徐福伝説の分布と弥生遺跡の実地調査を通して検討した。徐福伝説は和歌山県新宮市、三重県熊野、佐賀県諸富町などに分希しているが、実地調査の結果、徐福の上陸の真偽よりも、伝説の成立した歴史的背景をとらえることができた。新宮に徐福伝説が生まれた理由は熊野信仰と密接な関わりがあった。文献では徐福祠が熊野にあったことは少なくとも13世紀までさかのぼれるが、平安期の10世紀初頭から江戸時代まで熱狂的に行われた熊野御幸と熊野詣のなかで、聖地であり浄土とされた熊野に徐福を祭る必然性が生まれてきた。東海に蓬莱の理想鏡を求めた徐福の到達地を熊野に置くことで熊野を神聖化した。また熊野信仰より以前には、徐福と海神信仰の阿須賀神社との関係が生まれ、のちに熊野三社のなかにとりこまれていった。一方九州の徐福伝説は弥生集落の分布と密接な関係がある。有明海、筑後川流域、太宰府というラインは弥生時期から重要な交通路であった。佐賀の徐福伝説は筑後川流域の雨ごいの信仰と結び付いている。それにしても秦帝国の周辺に位置した九州の弥生時期は、集落の密集性、農耕文化の先進性など、かなりの豊かさを誇った時代であった。福岡市博物館、九州歴史資料館、佐賀市博物館などで弥生時代の遺物を見たが、木製や鉄製農耕具が豊富であった。中国社会の先進性と弥生社会の未開性を常識的には対比されがちであるのは、国家諸制度の完成度の差から見たからである。今日ではこの常識を見直す時期にきていると思う。北九州の弥生期は部族国家の乱立する状態で、広域的な国家は出現していなかったが、それが社会の未開性ということにはならない。従来秦帝国の周辺には東アジアという歴史世界が未形成されていたが、それは文献史料の乏しさに理由があった。近年の弥生遺跡から見ると、東アジア世界の存在は明かである。次年度にさらに考察していきたい。
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