『バンベルク刑事裁判令』の編纂がシュヴァルツェンベルクというフランケンの帝国騎士でバンベルク司教領国の宮廷長官の指導力に帰せられる側面があることは否めない。とくにかれ自身自領において刑事裁判の改革---七人による断罪宣誓手続に代わって被告の自白、あるいは証人の証言に基づく裁判の出現という---を行なっていた。しかし他方で当裁判令の成立は或る一個人の英雄的な行為といったごとくに捉えるのでなく、領国の学識法学者たちに負うところが大きかった点に、従来以上に注意を払う必要がある。そのさい、法学者で道徳哲学者アルブレヒト・フォン・アイブを中心に十五世紀後半以降の司教座聖堂参事会と宮廷において培われ伝統となっていた人文主義思潮が背景にあったことに目を止めねばならない。広くヴュルツブルクを含め領国の多様な学者たちの群像は、バンベルク出身者について編まれた大学学籍名簿を通して浮き彫りにできる。この研究は今後一層発展させていきたい。 『バンベルク刑事裁判令』はイタリア刑法学説を支えにしており学識法学の所産たる性格を有していた他方で、中世的刑事法との繋にも注意を払う必要がある。その点で特筆に値するのは202条や153条に述べられている、復讐断念契約を破る者や脅迫をおこなう者、将来犯罪をなすおそれのある者、正常な生活を離脱し支援者とともに暮らす者という、いわば犯罪予備軍にたいして予防の措置を設けようとする思想である。永久拘禁や保証金支払いの対象となったこれら反社会的存在は、実は13世紀後期以降南ドイツにおいてラント平和の破壊者として登場した、いわゆるラントにとって有害な人間の系譜を引いている。領国のみならず帝国においても刑事司法の改革が企てられていた背後にはこうした中世伝来の犯罪現象がいまだ充分に鎮圧されなかったことが大きく関係していた。そしてそこにもイタリア刑法学説、特にユリウス・クラールス等の学説が影響しており、今後研究を進めていく必要がある。
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