本研究は、伝統産業の今日的問題性の淵源を大島紬業と結城紬業の比較をとおして解明しようとするものである。今回は戦前期に限定して取りまとめた。 (1)産地の形成は協同組合の創立をメルクマ-ルとすることができるが、奄美産地は20世紀初頭に形成され、1910年頃に確立した(産地問屋の未形成)。他方、結城産地は問屋主導のもとに1880年代に形成され、奄美産地と同様に1910年頃に確立したとみることができる。紬産地が形成されるについては、両産地のいずれにおいても絶対的な農村過剰人口の存在があった。これに加えて看過できないのは、自然的諸条件によって規定される生産力水準の低位性という問題があった。これらの条件は農民層分解を促迫し、農村家内工業としての大島紬業および結城紬業の存立条件となったのである。 (2)農村家内工業としての両産地はいずれも地域における労働力の配置構造の展開に即応しつつ展開した。奄美産地では紬業自体の内部において階層分解がすすみ、現在の名瀬市域を中心として専業化が進展した。専業と兼業とに分化したのである。同時にまた、資本の展開がすすんだ(小零細資本および賃労働の形成)。その結果、内機と外機の分化が生じ、農業(キビ作)との間に労働力の配置構造が成立することになった。 結城産地はやや事情を異にした。結城産地では奄美産地と比較して紬業の専業化はあまり進展せず、兼業(副業)を中心として展開した。このことの背景には伝統技術の継承の仕方の相違があった。結城紬の生産工程は製糸、染色、製織などの基的部分は殆ど手作業である。とりわけ<糸とり(糸つむぎ)>の日数は総日数の42.8%を占める。技術的特質の相違が産地の展開構造の相違をも規定しているのである。
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