鐘淵紡績会社の武藤山治が、明治30年代半ばから第1次大戦中にかけて各工場長にあてた回章を収集した。本年度はそのうち1900-07年の間の回章に基づいて、同社の工場管理のプロトタイプの形成プロセスを解明した。そして次を析出した。 第1 明治30年代前半から半ばにかけての鐘紡の不振は、従来武藤が工場長をつとめてきた兵庫工場を除く諸工場、すなわち東京本店工場および、買収により取得した多数の紡績工場の内部の未整理であった。そうした工場の綿糸に対しユーザーの機屋、糸商からおびただしい苦情がもたらされた。武藤は問題の核心をそれら工場の職工の貢献意欲の欠如に見いだした。 第2 そこでかれは現場労働者の作業実態を完全に掌握できるような組織構造の整備と、そのための職務分析を再三にわたり指示した。 第3 綿糸は職工の手でつくられる。そうして職工を武藤は人間的存在としてとらえ、彼らの経済的欲求のみならず社会的心理的欲求を充足するための革新的施策を次々と実行していった。その施策には、内外の企業の経験が参考にされた。 第4 工場の現場組織の改善によって、鐘紡の各工場の綿糸の品質とコストは競争力を持つようになり、内外市場で強固な地位を確立する事が出来るようになった。そして日露戦争後には、そうした生産システムの優位性に基づいて織布兼営をはじめとする大規模な多角化を開始した。 今後の課題として、次が確認された。第1、武藤の組織化を分析するための、分析概念の精緻化、明確化すること。第2、1907年以降第一次大戦にかけての鐘紡の工場管理の高度化を、大正初年の科学的管理法の導入、その成果と限界を分析することにより説明すること。
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