前年度作成した日本国内の庭園資料に加え、朝鮮における庭園遺構(慶州・雁鴨池、平壌・大城山、扶余・定林寺)、中国・唐・大明宮の太液池、および中国・朝鮮の庭園に関連する文献史料や壁画などの画像資料にあわせて検討し、中国、朝鮮の庭園文化と日本の庭園文化との関係を明らかにするとともに、日本の庭園発生期における庭園の構造や意匠の特性を把握し、その起源について考究した。 前年度分をあわせ統一的に作成した資料は10件である。これらの図をもとに比較検討し、城ノ越遺跡における平面形態や景石の用い方などが平城宮東院庭園遺跡や平城京三条二坊庭園と共通する面を有していることが判つた。一方、飛鳥地域における7世紀代の遺構には園池を構築する材料や工法は共通するものの、平面や意匠はそれぞれ固有の形を持つており、使われ方・機能に差があったことを推測させる。中国、朝鮮との比較では大明宮の太液池は未発掘であり、護岸などの詳細は不明であるが、規模はわが国の平城宮東院庭園や平城京三条二坊庭園とは比較にならぬほど大きく、直接その関連を考えにくい。これに対して、朝鮮の大城山と定林寺は規模、構造、意匠など、飛鳥地域の方池に近似し、直接的な影響が考えられる。 この中で最も重要な遺構は雁鴨池である。この池はわが国の7世紀代の方池と8世紀代の曲池との関係を解明する鍵となる。雁鴨池では建物の建つ西岸は方池につながる直線的護岸であり、ここから眺められる対岸は曲池につながる屈曲した護岸となつている。つまり、池に臨む建物からは自然景観を楽しみ、対岸から建物を眺めると仏教思想にもとずく西方浄土を見ることができたのであろう。いずれも当時の人々の理想世界を庭園に再現していたものと考えられる。結局、わが国の方池は西方浄土の表現であり、曲池は自然理想境の表現であつたのではないかという見通しを得ることができた。
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