本年度が最終年度であるので、研究をまとめたが、この成果は「成果報告書」以外にも論文等でも公表する予定である。結果は留学生の履修状況や国内の活躍を分析して得られた。 ベルクアカデミー・フライベルクは、1765年に設立された世界最古の鉱山冶金関係の高等教育機関であるが、ここに留学した日本人は明治大正昭和にわたって45名である。彼等は明治における富国強兵政策のもとに日本の鉱山冶金部門での工業関連高等教育制度実質的に形作り、また日本の鉱山や製鉄関連技術を確立するに決定的な役割を果たした。 (1)彼等の影響は一つには当然ながら鉱山冶金部門での専門分野でのドイツ・フライベルクでの技術修得が大きな役割を果たしたが、狭い意味での専門すなわち鉱山冶金部門での決定的な貢献である。八幡製鉄を指導した野呂影景や鉱山学会の会長を勤めた渡辺渡はその代表的存在である。(2)次に彼等留学生の日本での社会的位置を見ると、一番大きな関係は東京(帝国)大学鉱山冶金関係の教職である。東京(帝国)大学の鉱山冶金学科関係者は、一度はフライベルクを訪問し、世界的な技術レヴェルを修得するのが常であった。(3)当時の東京大学の国内の位置は教育機関の頂点であったから、彼等の影響は大学や高等専門学校を通じて国内中に広まった。(4)次に彼等の影響を考慮する時、明治における鉱山冶金部門は、当時は日本国内での経済的産業的位置では先端的主導的な部門であったことを念頭に入れなければならない。よって、彼等の日本に与えた影響は、鉱山冶金の狭い分野に限定されなかった。技術院の総裁になった井上匡四郎はその代表例であろう。すなわちフライベルクの影響は鉱山冶金部門だけにとどまらなかった。(5)留学生たちのフライベルクでの履修状況は、成績は別にしても彼等は概して極めて熱心であった。(6)彼等の修学形態は、正規の3年間の履修生になったものは少なく、臨時留学生であった。履修内容はしたがって正規なものではなく要望に応じた断片的なものであった。(6)彼等の興味は国内の社会的位置によって規定され、当時フライベルクの抱えていた環境問題などは多くの関心をよばず、結局彼等の国内的位置によって規定される枠内でフライベルクの影響を受けたと結論される。
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