研究概要 |
二諦説,三性説及び修道論(1)凡夫の常識としての世俗のみならず(2)ヨーガ行者が止観の修習を通じ判定する世俗とがあることは、整合性(avisamvadaka)を有することに関しても段階を設けていることからも知られる。すなわち、凡夫の直接知覚は常識に関して、声聞などのヨーガ行者のそれは、人無我だけに関して、ブッダの直接知覚こそが、あらゆる真理と勝義に整合している。また(1)、(2)それぞれにも・実・邪世俗が設けられているものと考えられる。特に(1)に関しては、中観派内にあっても相違が見られる。つまり、世俗としても、依他起性二事物(vastu)を承認するか否かということにより、スヴァータントリカとプラーサンギカとに分化すると言ってよい。すなわち、BhavarivekaやJnanagarbhaをはじめとする後期中観派は、それを承認し、他方Candrakirtiは世俗としても依他起性二事物を承認しない。この点の相違をTson khapaは、依他起性二事物二自相(svalaksana)の有無という点に求めていることが知られる。この自相を観点としてTson khapaは、言葉(sabda)名称(naman)と三性説及び二諦説を焦点に唯識思想と中観思想を検証し、それらの思惟方法の相違のみならず、中観派内のプラーサンギカとスヴァータントリカとの相違をも指摘している。また後期中観派は(2)ヨーガ行者の世俗と位置付ける段階に、諸学説の吟味検証を当てている。特に唯心世俗説が、ヨーガ行者にとって判定される世俗である点は重要である。この段階が煖、頂、忍、世第一法位という修道論の構造を形成している。しかしこの学説の吟味検証を内容とする修道論はTson khapaにより批判される。すなわち彼によれば、その修習法は、輪廻の根本である生来の無明の克服に資するものではなく、学説論者の遍計の無明の排除を主眼としているにすぎないのである。彼が、Candrakirti系のプラーサンギカであるということは、有身見の克服を目指す修道論の設定にある。
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