北海道の開拓村落社会は、道外の伝統的社会からの移住者によって、人為的に形成された社会である。伝統的社会から人々が移住・定着して以来、現在に至るまでの歴史が短いだけに、その形成と変容過程を、道外の伝統的社会に比ベて、より具体的に把握することができる点に特徴がある。北海道地域社会の生活文化を総合的・体系的研究に把握するには、伝統的社会からの人々の北海道への移住の時間的経緯のなかで、その新旧の歴史を縦軸とし、その空間的広がりを横軸として、生活文化の態様を基準に、次のA〜Eに地域社会を類型化して把握できる。即ち、A型同一母村同時型、B形同一母村継時型、C型二異母村同時型、D型二異母村継時型、E型多異母村混合型である。 網走管内への屯田兵およびその家族の移住は、明治30年と31年の両年にまたがっている。端野(現端野町)へは屯田歩兵第四大隊第一中隊、野付牛(北見市)へは第二中隊、相ノ内(北見市に合併)へは第三中隊、上湧別(上湧別町)へは第四中隊であった。例えば、野付牛へ移住した家族のうち、記録焼失不明者を除く移住者を、府県ごとに多い順に並ベるとなんと、石川県、山形県、岐阜県、富山県、福井県、佐賀県、福岡県、愛知県、福島県、高知県、和歌山県、宮城県、鳥取県、三重県、新潟県、広島県、熊本県、愛媛県、徳島県、香川県、島根県、奈良県、青森県、兵庫県、山口県、栃木県、大分県、秋田県、埼玉県、滋賀県、京都府と、31府県197戸に及び、北海道開拓村落の中でも、網走管内の屯田兵村は、背景を異にする生活文化を担うわが国のさまざまな伝統的社会からの移住者である屯田兵をベースに形成されている。移住形態からみるその村落社会の生活文化の特徴は多異母村混合型であるといえよう。 移住したその年は収穫物なく、本部から扶助米と塩菜料が3年間給与された。5人家族が単位で、主食は雑穀と馬鈴薯で、芋味噌や芋餅、はては芋粥にして、糊口をしのいだという。移住4年目にして豆、麦、黍がとれるようになった。その後、この地域はハッカ栽培の主産地と知られるようになり、幾たびかの苦難の時代をくぐり抜け、今や、小麦、ビート、馬鈴薯、玉葱、豆類などの畑作を基幹産業として、新たな地域づくりをめざして未来へ向けて大きく羽ばたいている。
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