近代中国において上海は経済・文化の中心的存在であった。しかし、1937年に日中戦争が始まり、上海租界区がいわゆる“孤島"期を迎え、続けて1941年太平洋戦争が始まりその租界区も日本軍に接収されるに至ると、上海文化界は大きな変貌を遂げた。 戦前の上海には二万を越す邦人が滞在し、三種の邦字日刊紙が刊行されていた。太平洋戦争間近になると、これら邦字紙は新聞紙統制のため統合され『大陸新報』一紙となる。その一方、邦人数は十万に達する。厳しい言論統制下にあったことを常に念頭に置くべきではあるが、『大陸新報』はこれら邦人の動向及びその中国観、そして日中文化界の交流の最大級の証言者であった。 本研究では、このような日中文化交流史における空白領域を埋め、不幸な時代の新聞資料を整備し、ひいては戦時下における文化界の交流のあり方を考察するために以下の作業を行い、研究実績を積み上げた。 『大陸新報』(1939年1月〜45年9月、全22巻)マイクロフィルム版をもとに、その第一年分(1939年1月〜12月)の総合的記事目録および50音索引の作成をほぼ完成し、これに基づく文化交流の実態調査を鋭意進行中である。その一環として、日中戦争期の中国文学者、中国語学者の体験を調査し、その成果の一部を拙著『東京外語支那語部--交流と侵略のはざまで』(朝日選書)に収めた。また、1895年以来長期にわたって日本の植民地統治を受けた台湾における文化交流のあり方を取り上げ、戦中期上海の状況との比較研究の基礎作業を拙稿「植民地台湾へのまなざし--佐藤春夫『女誡扇綺譚』」で行った。
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