研究の一第部を構成するゴルバチョフ対日外交政策について研究を行った。研究では、国内要因によるゴルバチョフ政権の対日政策の形成を検討することによって、ロシアの政策が日ロ関係に及ぼす影響力を研究してきた。研究の主要な課題は、ゴルバチョフ政権が行ったソ連の大改革にもかかわらず、なぜ日ソ両国は平和条約を締できないまま、ソ連そのものが崩壊してしまったのかである。 結論として、1988年後半までのゴルバチョフは日ソ関係に関心を持っておらず、日本側が平和条約の条件として考える領土問題について詳しい事実関係さえ把握していなかった。それゆえ、新思考政策は、対日政策にほとんど影響を与えることはなかった。対米関係などの他の問題があらかた片づいて1988年の後半以降に、ソ連の新しい対日政策が本格的に追求され始めた。ゴルバチョフは中曽根首相をはじめとして多く日本の政治家や文化人と接した。それを通してゴルバチョフの対日認識が変わったのである。ゴルバチョフは日本が大国であると認めた。以前から対立関係を所与とする考え方は、協調を求める妥協的なものに変化した。また、北方領土問題について外務次官級平和条約作業委員会が設置され、ソ連は日本の領土要求に耳を傾けるようになった。 ところが、ゴルバチョフが始めたソ連の改革は、急進派の台頭を招き、ゴルバチョフ自身にも改革をコントロールできなくなった。また、1990年6月12日にロシア共和国人民代議員大会は、ロシア共和国の主権宣言を採択した結果、ゴルバチョフの対日政策決定を拘束することになった。したがってゴルバチョフの権力が大きかったときには対日政策に積極的ではなく、権力が低下してから対日政策に積極的になったことが、新思考政策にもかかわらず日本とソ連が平和条約を締結できなかった最大の理由といえよう。以上の研究の成果を神戸法学雑誌に掲載する予定である。
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