本研究の目的は、「悪の克服の可能性」の問題を、主にポール・リクールの哲学を参照軸として明らかにすることにある。そのリクールの悪論は、思想的な系譜において、カントからジャン・ナベールにつながる根元悪の問題系に属している。したがって、研究は、必然的にカントおよびナベールの悪論の研究を含むことになる。それらの比較・対照という方法によって、必ずしも明らかではないそれぞれの悪論の特徴を浮かび上がらせ、またそれを通して「悪の克服の可能性」という問題を考察する。これまでの研究の成果として、まず一つにそれらが共通して悪の経験のあるパラドクス的な性格を巡って動いていることが明らかとなった。それは、悪とは、そのつど新たに犯されるものでありながら、同時に、つねにすでにそこにあるものでもあるという性格である。悪のもつ、この奇妙な時間性ないし歴史性こそ、カントの言う根元悪の謎に他ならず、またナベール及びリクールの思考がその周りを巡っているものに他ならない。これは、悪の問題のアポリアの核である。このアポリア性は、そのまま赦しという現象のアポリア性へとつながる。リクールの最晩年の思索は、この赦しのアポリアを巡って行なわれた。その際に重要な参照軸となっていたのがデリダの思索である。そしてナベールもまた、悪のアポリアから赦しのアポリアへと思索を進めている。ここにいたって、悪の克服の問題は赦しのアポリアとして具体化されることになる。アポリアといっても、それは単なる袋小路ではない。むしろ、そこから新たな宗教哲学的思索の生じる豊かな土壌足りうる。
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